仏事の作法 | 浄土真宗本願寺派 明徳山 常福寺

仏事の作法 / 仏事のイロハ

葬儀や法事など仏事にまつわる儀式には、作法・礼儀というものが重んじられます。もちろん先祖や仏を敬う心が一番大切であり、形だけできていれば良いというものではありませんが、慣れない仏事で恥ずかしい思いをしないためにも覚えておいて損はないでしょう。

ここでは浄土真宗の作法にならって説明いたします。

仏事の作法

数珠の持ち方
数珠は念珠ともいい、仏前に礼拝する時には欠かせない法具です。本願寺派の場合、合掌の時、両手にかけて房を下にたらし、親指で軽くおさえます。合掌しない時は、房を下にして左手に持ちます。
合掌礼拝のしかた
両手を身体の前で合わせ、指をそろえて約45度上方に伸ばし、念珠をかけて親指で軽くおさえます。肩やひじを張らず、目をご本尊のほうに向け、そして、静に「南無阿弥陀仏」と唱えます。礼拝は、合掌したまま、上体を約45度かたむけてお礼をし、上体をおこしてから合掌をときます。
焼香のしかた
本願寺派の場合、焼香を1回行い、香を焚いた後に合掌・礼拝をします。香を焚く前に合掌をしたり、鈴を叩いたりしないようにしましょう。
葬儀でしてはならないこと
葬儀でよく「清め塩」を用いますが、これは死をけがれと見なしたり、死者のタタリを恐れる考え方に由来しているようです。しかし、そもそも亡き人をけがれやタタリと見なすこと自体が故人に対して失礼なことこの上ありません。ですから「清の塩」は必要ないのです。
また、 その他にも「箸を立てて陰膳を供える」ことや、「棺の上に守り刀を置く」こと、出棺の時に故人が使っていた「茶碗を割る」こと、「火葬場との往復の道順を変える」ことなども、故人に対して失礼な行為であり浄土真宗では行いません。
お布施・謝礼について
葬儀をつとめて頂いたお寺への御礼は、葬儀の翌日に改めて出向くことが最善です。
正式には、筆で「御法礼」と表書きするか、または「お布施」と書くのが正しいやり方です。一般的には、不祝儀袋を使ってもかまいません。水引は黒白を使います。
御法礼はお布施をお渡しする時は、直接手渡しするよりも、小さなお盆に乗せて差し出すことが、よりていねいな形になります。
浄土真宗では使わないことば

使わない言葉

正しい言葉

御霊前・御霊 御仏前・御尊前
祈 る 念ずる
戒 名 法 名
故 人
回 向 おつとめ
告別式 葬 儀
引導を渡す おかみそりを行う
やすらかにお眠り下さい 私たちをお導き下さい
天国に昇天する 浄土に往生する
草場の陰 お浄土
おかくれになる 浄土に往生する
追善供養 追悼法要
開眼法要 入仏法要
地鎮式 起工式

仏事のイロハ

お仏壇は死者を祀る所?
人口の流動化や核家族化などの社会情勢の変化によって、最近では何世代にもわたって同じ家に住むことがめっきり減り、次々と新しい家が建ち、また引越しも頻繁におこなわれています。
そうして移り住んだ家には、特に若い世代を中心に昔はどの家にもあったお仏壇が安置されていないケースが増えてきました。
「なぜ、お仏壇がないのですか?」と尋ねてみると、けげんそうな顔で「まだ誰も死んでいませんから・・・」とか「仏壇は田舎にありますから・・」といった言葉が返ってきます。
〝誰も死んでいない〟とは、考えてみれば妙な話で〝私〟につながる数限りないご先祖の方がたが死んでいったはずです。
それはさておき、こうした言葉の裏には、お仏壇が、今生きている家族の誰かが死んで初めて必要になるものであり、ご先祖にしても、子孫の誰か一人(多くの場合、長男)が〝面倒を見れば〟事足れり、といった認識があるようです。さらに言えば、お仏壇は〝死者や先祖をおまつりするためのもの〟と思っているのです。
しかし、はたしてそうでしょうか?お仏壇というのは、文字通り〝仏さまをご安置する壇〟のことです。仏さまとは、言うまでもなくご本尊である阿弥陀仏(如来)のこと。ちょっとしたことにこだわり、悩み、自己を見失いがちになる私をしっかりと抱きとめて、けっして崩れることのない安らぎを与えて下さる阿弥陀さまです。お仏壇は、そうした私の心の依り所となり、家庭の精神的基盤となってくださる阿弥陀さまをご安置するために設けるのです。
いじめ、家庭崩壊などの心の問題が山積している昨今、家族そろって阿弥陀さまに手を合わせることが、どれほど心豊かな家庭生活につながるかわかりません。ですから「田舎にあるから・・・」とか「長男だけでよい」とか言わず、独立した家庭であれば必ずお仏壇をご安置するようにして下さい。

※ 本願寺出版社〝仏事のイロハ〟末本弘然著より転載
※ 常福寺に貸出用仏教書がありますので、ご利用下さい。

お仏壇を買うと死者がでる?
『何もないのにお仏壇を買うと、死者がでる』という迷信があり、気にする方がいるようです。
”何もない”とは『誰も死んでいないのに』という意味です。
これも、〝お仏壇が死者をまつる所〟という誤った認識から生まれたものです。すなわち、死者をまつるためのお仏壇を安置するのですから、死者がいなければ困るわけです。そこで『お仏壇を先に買うと、入るべき死人がでる』という短絡的な発想が生まれてきたのでしょう。
先日もお寺の集まりでこの迷信について尋ねてみたところ、お年寄りはたいていの人が知っていて、あるおばあさんなど『やめときって言っているのにお仏壇を買うもんだから、買ったとたん誰それが死んでしまって・・・・』と真顔で話し出したものですから、こちらもひとこと『死ぬ前に買えて、間に合ってよかったですね』と言っておきました。
実際、お仏壇を買われたばかりに、今も後悔されている門徒さんもいるのです。
その奥さんは、ご主人が『お仏壇を安置したい』と願われていたにもかかわらず〝死人がでる〟との迷信を気にして、お仏壇を買うことに反対されました。ところが、ほどなくして〝買ってない〟のにご主人が亡くなられてしまったのです。奥さんは涙ながらに『主人はきっと如来さまを身近に仰ぎ、心の依り所としたかったのでしょう。そんな主人の願いも解せず、迷信を気にした私が悪かったのです。せめて死ぬ前に買って、安心させてあげたかった・・・』
まさに人生は無常です。老いも若きもいつ死が訪れるかわからないのです。
お仏壇を買ったからといって、それが原因で死ぬわけではありません。※そういう因果関係はありません。
買う買わないにかかわらず、縁が尽きれば誰でもが死んでゆくのです。お仏壇は、そうしたはかない人生を精いっぱい生きぬく依り所になるものです。
〝死者が出る〟などと気にせず、一日も早く安置して下さい。
なお、購入の時期や日の吉凶も気にしてはいけません。

※ 本願寺出版社〝仏事のイロハ〟末本弘然著より転載
※ 常福寺に貸出用仏教書がありますので、ご利用下さい。

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